東京都の琺瑯街区表示板

 東京に半世紀以上前のものなんて残っているの?と思われる方もいらっしゃるでしょう。実は東京には大量に残っています!おそらく設置数が多かったのが要因だと思いますが、23区(特別区)でも沢山みつかりました。

 23区、多摩それぞれ辞書順で並んでいます。


壱、東京特別區


板橋區大谷口上町41番地

 「區」表記ですが、左書きなので戦後の設置です。大谷口上町の成立は1959年、住居表示実施は1971年です。板橋区ホームページでは住居表示実施前後の地番と街区の対応性を知ることはできなかったため、断言はできませんが、現在も41番地なので1971年の設置と思われます。

江戸川区北篠崎町2丁目94【現:北篠崎】

 北篠崎町は1966年成立の,住居表示未実施地域でした.大部分が1990年に,最後の一部が1991年に廃止されました.旧町名の地番表示板って素晴らしいですね.

 小岩昭和通りの呉服店のだやさんは見つかりませんでした.信販のチケットという文言がありますが,次に紹介する東小岩のものにも信販の文言がありました.

江戸川区東小岩5丁目2

 東小岩は1966年に小岩町の一部などが住居表示実施をして成立しました。

 女性自身の創刊は1958年で、描かれているロゴは2009年まで使用されていました。江戸川信販に関しては、江戸川信販会館が1967年に建築されたらしいですが、江戸川信販の行方は調査しきれず。会館の建物は2021年時点で現存しています。また、市内局番3桁は1990年まででした。これより設置年は1967-90年と推測されますが、70年前後ではないかと推測します。ちなみにマスコットという店はみつかりませんでした。

江東区深川住吉町二の四(現:住吉)

 明らかに古いこの地番表示板に書かれているのは「深川住吉町」の文字。江東区は1947年に発足したようです。深川住吉町は1968年の住居表示実施に伴って廃止されてしまいました。2021年の撮影時点で実に53年が経っている骨董品級の一品でした。

 広告主は山之内製薬で、こちらも今は存在しません。胃にファイナ

渋谷区笹塚三丁目11番地

広告の無いタイプです。渋谷区笹塚は今もある地名で、渋谷区立図書館の資料によると昭和43年(1968年)の住居表示実施で成立したそうです。

杉並区井草1-26

 井草は昭和38年(1963年)という非常に早い時期に住居表示実施されました。住吉町、矢頭町、八成町、正保町などから成立したのですが、それらの旧町名はごく一部の民家の表札に見られる程度でした。

 領収書にスタンプを押したみたいに傾いた文字がエモい広告欄。犬マークが目印の吉本獣医科は今もあるのでしょうか。書かれている住所に行ってみると二階建てのアパートのような建築がありました。1階が獣医科だと言われても違和感はないですが、その建物の駐車場には「陶芸教室」との看板が立っていました。そこにある電話番号とこの看板のものは違ったため、恐らく建物の所有者は変わってしまったのでしょう。

杉並区上井草町121番地(現:上井草)

 井草と同様、昭和38年に住居表示実施をした上井草。ちなみに井草は9月、上井草は12月と微妙にずれています。かつて井草と上井草にまたがって存在した上井草町というものはご存じでしょうか。自分はTwitterで写真の琺瑯看板を見るまで知りませんでした。上井草町の町がとれたのが今の上井草といいたいですが、実は限られた範囲なのです。範囲が小さければ小さいほど母数が少ないので痕跡は限りなく0に近づきます。そんなこともあり、上井草町の痕跡探しはあきらめかけていました。でも1963年に姿を消した地名を見つけたいという気持ちはあり、自分の通う水戸の大学の図書館でひたすら史料を読み漁っていました。そうしたら、地番まで書かれている戦後間もないころの23区の地図をみつけたんです!それをもとにこの地番表示板にたどり着いたのです!…でもこんなことしてたどり着いた人は自分だけだと思います。なぜなら、杉並区公式サイトには「住居表示新旧対照表」というものがあるからです。なんで気づかなかったんだろう、自分は。

 さて、広告主はみなさんご存じ、今もある「S&B」のロゴでおなじみのヱスビー食品です!旧町名に旧字体のヱスビーは映えますね~

杉並区清水2丁目23

 清水は清水町や中瀬町などから昭和40年(1965年)に成立しました。中央が錆びてしまっています。

 広告主はどこの店舗か不明の「東芝ストアー」でした。後程紹介する練馬区にも全く同じ広告があったので、汎用性のある広告だったことがうかがえます。この形式ならば最寄りの東芝ストアーが閉店しても支障がないので有効な広告だと感じました。

杉並区清水3丁目5

 錆びがひどいですが、琺瑯加工が割れてしまっているからでしょう。ガラスなので車がこすったり硬いボールを投げたりしたら(多分)割れてしまいます。

 広告主の眼鏡店は見つけられず。電話番号も今は使われていなさそうです。そういえば自分は小さいころ、北口にあった別の眼鏡店で買ったものを使っていましたっけ。もう10年以上前に閉店してしまいましたが。

杉並区下井草3-16

 見切れてしまっていますが、公道から撮影できる限界です。下井草も上井草と同じく昭和38年の住居表示実施で、下井草町などから成立しました。

 広告欄がほかのものに比べて大きめです。広告主は「家具のよだ六」。阿佐谷パールセンターは今もあるアーケード商店街で、旧七夕には七夕まつりが開催されます。アーケードの屋根から吊るされた小学生や有志の作品からその年の流行が見れるので毎年楽しみにしていました。さて、よだ六さんは今もあるのでしょうか。調べてみましたが残念ながら見つからず。今や通販で購入できる家具ですが、一度は昔ながらの実店舗で商品を体験したうえで購入してみたいものです。

杉並区下井草3丁目31

 井草地区には相当数琺瑯看板があります。それだけ歴史のあるお宅や商店があるということです。このお宅の外壁は新しくしたようでピカピカなブロック塀でしたが、この看板の場所だけは手を加えなかったようで壁も古いままでした。家主の方が大切にされているであろうこの看板は令和の今も反射するほどきれいな状態でした。

 広告主は東芝カラーテレビで、東芝が東京芝浦電気と名乗っていた時代です。このロゴが使われたのは1950年から1969年で、まだカラーテレビなんて全然普及していなかった時代だったのでしょう。ハクション大魔王2020では50年前と2020年を比較する企画がありますが、50年前はカラーテレビと白黒テレビの割合は半々だったと言っていたはずです。

杉並区下井草3丁目34

 先ほどのものと番地違いで広告も東芝です。こちらは先ほどのものと比べたら錆が少しあり赤が少しくすんでしまっていますね。でも今あなたの身の回りにあるものが50年後に残っているかと言われたらほとんど残っていないでしょうし、あっても状態もよくはないでしょう。そう考えると琺瑯加工の凄さがちょっと伝わるかもしれません。

杉並区下井草4丁目27

 4丁目にも東芝の広告が。下井草地区は東芝一強ですね。世界の東芝、下井草の東芝。

杉並区西荻北3丁目40

 西荻北は昭和39年に西荻窪2,3丁目などから成立しました。正式な地名が省略名というのには驚きです。また、この手の看板には決まってある都のマークが左上に書かれていないです。明らかに隙間はあるのに。ちなみに、道場の木の壁に貼られていて、昭和感満載です。

 赤がここまで褪色している琺瑯看板はそこまで見ない気がします。西荻貨物輸送という会社が広告主ですが現存するのでしょうか。結論から言うと、目印となる「女子大通り一番街」すら見つからず。恐らく今の女子大通り正和会だと思います。今は無いとはいえ、電話が3つもあるということは当時は繁盛していたのでしょうね。

台東区台東三丁目11

 台東は1964年に御徒町や竹町などから成立しました。山手線の駅名にあるのに地名には見当たらない御徒町、これは住居表示実施により姿を消していました。

 都心に縦長タイプの琺瑯製街区表示板があることに驚きましたが、しっかりと管理されていた形跡があることにも驚きました。当時の琺瑯街区表示板にはフリガナや英字は当たり前ですが振られていなかったようで、シールで追記されています。この琺瑯看板から数メートル先に同じ番地のフリガナと英字付きのアルミ製街区表示板があるためか、撤去もされずに令和の世の中でも現役でした。ずっと残っていてほしいですね。

中央區銀座東二丁目五番地(現:銀座)

 1951年から69年まで存在した「銀座東」は、今なお銀座東二丁目などの交差点名称に残っています。右書きなので戦前の期待もあったのですが違いました。現在の銀座です。

豊島 千川町二丁目14(現:千川)

※建物解体により消失

 1932年の東京府東京市豊島区発足時には3丁目まであった千川町は、39年に2丁目までになり、43年に東京都豊島区の自治体に、そして1989年(平成元年)の住居表示実施より千川町は廃され千川一丁目と二丁目の現在の形になりました。町の由来はやっぱり千川上水(玉川上水の分水)です。

中野区江古田4丁目25

 江古田の住宅地にある廃屋と思われる民家の壁に設置されていました。窓ガラスは割れ、壁に穴が開いているので中が見えてしまっているのですが、電気ポットや照明器具などの生活痕が色濃く残っていて、今も人がいるのかと疑うほどでした。昼間なのに怖かったです。さて、江古田と聞いて西武線の江古田駅を思いだす方もいらっしゃるでしょう。江古田駅は練馬区なのに、地名の江古田は中野区なんて不思議ですよね。練馬区民の私も最近知ったのですが、かつては練馬区にも中野区にも江古田町があったとのことです。住居表示実施の際に練馬側は旭丘に、中野側は江古田と江原町に改められたそうです。ちなみに、練馬側は「エコダ」、中野側は「エゴタ」と読み、この琺瑯看板では後者の読み方です。

 さて、沼袋駅前にあったという「矢崎薬局」はいまもあるのでしょうか。検索してみると、確かに駅前の4階建てのマンションの中にありました。物件名は「アネクスYAZAKI」で恐らく自社ビルなのでしょう。大手仲介サイトのSUUMOでこの物件を見てみると2004年築とのことでした。薬局だけでなく不動産までしているとは驚きです。これからも長く沼袋の地に残っていてほしいですね。

中野区野方4-46

 新青梅街道沿いの住宅の塀にありました。中野区野方は1964年12月に住居表示を実施しました。方の字の独特な自体や、4の字の形の違いがこの看板のお気に入りポイントです。

 さて、広告主の「中村時計店」や「北原通り」は今も残っているのでしょうか?まず、北原通りとはどこなのか検索してみると、今も同じ名前で「野方北原通親交会」として残っていて、2022年2月25日現在、時計と宝石販売をする「ナカムラ」という時計店があるようです!!「中野区商店街ナビ」によると、60年の歴史がある時計店とのことで、恐らく60年弱前の住居表示実施のタイミングに設置されたのではないかと思います。ちなみにナカムラさんの電話番号は5215の部分だけ同じでした。

練馬区小竹町一丁目57番地

 広告の無いタイプです。実はこの建物、近年建て替えたばかりなんです。琺瑯看板を撮影する前に取り壊されてしまって残念だと思っていたら、まさか新築に、かつて掲げられていたのと同じ場所にあったんですよ!!店主さんが昭和好きなのか琺瑯マニアなのかはわかりませんが、残してくれたことには感激です。

練馬区小竹町二丁目19番地

 丁目を付した小竹町は1960年の設置で、住居表示実施は1987年です。まさか87年に琺瑯看板が設置されたとは思いませんので、現在と同じ番地です。地番整理のおかげで住居表示実施による変更がなかったのかなと思っています。

練馬区下石神井2丁目1210

 「練」の字が旧字体になっています。1970年に下石神井2丁目のほぼ全域が住居表示実施をし石神井町1~8丁目に改められ、現在に続いています。ちなみに現在の下石神井1~6丁目は旧)下石神井1丁目から成立しました。高校の通学路でこの道を通っていたのですが、まだ旧町名について知らなかったので、なんで下石神井のものが石神井町にあるんだろうと不思議に思って調べだしたのが、琺瑯看板と旧町名探しの原点だったりします。

 広告主の東芝ストアーはどこにあったのかはわからないですが、杉並区清水にもおなじ広告があったので、同じ広告のものが複数設置されていたのかもしれませんね。

練馬区高野台3丁目4

 1965年の住居表示実施により誕生した高野台。都内でも比較的初期に住居表示実施が行われた地区です。高野台の高という字が髙(はしご高)なのが最高です。

 広告主の長命寺通り(長命寺山門~石神井公園駅南口を結んでいた道で、この看板も長命寺通りにある)の西練馬センターはどこかわからなかったですが、下石神井2丁目、つまり現在の石神井町にあったということはわかります。ちなみに先述の通り下石神井は1970年に住居表示実施されたので、この看板は1965年から1970年の間に設置されたと予想されます。

練馬区田柄1‐23

 暗渠の小道にひっそりと残っている小さな青い看板です。夜に行ったことがありますが、小道には倒壊した家屋の小片が散らばり危険でした。田柄は1967年に住居表示実施し、住所は今と変わりません。

 広告主は星屋宝飾店。現在は宅地となってしまっており、現存しません。この琺瑯看板の特徴は、広告部分の白枠がアメの包装紙のような形になっていることです。非常に珍しいタイプだと私は感じています。見直してみたらさっきの高野台もこの形でしたね。

練馬区早宮2丁目8

 ここにもありました、飴玉広告欄!住所は今と変わりません。早宮っていかにも昔からありそうな地名ですが、1965年成立で由来は練馬村時代の大字早淵と宮ケ谷戸らしいです。ちなみに東京市時代は早宮一帯は板橋区練馬仲町の一部だったようです。

 さて、飴玉広告も興味深いですが、広告の内容も面白いです。「クレヂット」に、電話番号の意味の「モシモシ」など独特な言い回しが最高です。広告主のカメラ店は残念ながら現存しません。そして目印とされている大山銀座もイトーヨーカ堂も現存しません。イトーヨーカドー大山店は1964年から1994年まで板橋区大山町に存在し、1979年の火災により建て替えをしています。江戸時代から栄えた大山銀座は1977年に隣の商店街と合併し、アーケード商店街の「ハッピーロード大山」になっています。ハッピーロードは都道420号に指定されている区間があり、近年は道路の拡幅計画により、100年以上の歴史を持つ商店も含め、移転や閉店を余儀なくされている現状です。江戸時代からの商店街と、歴史を無視して快適な車環境を得るために直線を引いただけの都市計画道路。どちらが地域にとって大切なのでしょうか。都市計画を大学で習っていますが、やはり納得できません。

練馬区練馬1丁目7番

 1963年2月1日の住居表示実施で、都内第一号の住居表示実施です。23区の端っこの農業地域のわりにこういうのは早いんですね。驚きです。練馬と言えば23区で唯一の飛び地の西大泉町(住居表示未実施)しか印象がないので猶更です。よく見ると「練」の字が旧字体になっています。


弐、多摩地区


昭島市昭和町三丁目4

 昭島市公式サイトによると、昭和町は昭和40年(1965年)の住居表示実施で、昭島市で最初の実施のうちの一つのようです。

清瀬町松山一丁目14

地名は今も松山ですが、自治体名が違います。1954年に清瀬町が誕生、1964年に住居表示実施し松山が誕生しました。1970年に清瀬市となったのに、令和になった2020年にも残っていました。しかも駅前の商店街に残っていました。なかなかすごい。

清瀬町元町二丁目10

同じく清瀬町時代のものですが、松山に1年遅れて1965年に住居表示実施したこちらは緑色でした。年度ごとに色を変えていたりしたのかもしれませんね。ところで、現行の「清瀬市」の街区表示板は見かけなかったのですがどうしてなのでしょうか。

北多摩郡久留米 浅間町3丁目17

 現在の東久留米市浅間町です。今は北多摩郡自体が存在せず、これは大変貴重な存在です。北多摩郡は府中から清瀬までの広範囲を郡域としていましたが、久留米町が市制施行した年の1970年に北多摩郡は消滅しました。久留米町は単独市制施行なので「久留米市」でもおかしくはないのですが、「東久留米市」という名前になりました。その理由は、東久留米駅が由来とも、九州の久留米市に忖度したとも、いろいろな説があります。ちなみに、この看板に書かれている「北多摩郡久留米(町)浅間町」は1966年から1970年のたった4年間しか存在しなかった地名です。

 広告主の「サンヨードライセンター」は見つかりませんでした。しかし、「ひばり丘駅踏切」という文字から、現在のPARCOの場所ではないかと推測されます。

保谷市栄町3丁目2

 現在の西東京市栄町です。保谷市は2001年に田無市と合併し西東京市となりました。合併から20年がたち、保谷市の名残が徐々に消えていく中、2022年初頭にも健在でした。

 また、広告主の「太平信用金庫」は2006年に合併して多摩信用金庫になりました。現在もひばりが丘北3‐4に多摩信用金庫があります。そして広告欄の白枠がアメの包装のような独特な形をしています。23区では練馬区に2枚確認していて、知る限り3例目です。

保谷市富士町一丁目4

 恐らく保谷市のものです。現在の西東京市です。1965年に住居表示実施されました。地名の由来は恐らくふじ大山街道に由来する富士街道から来ているのでしょう。