住居表示実施済地区に残る地番表示板:東京

そもそも地番表示板は義務ではないので数が非常に少ない。ましてや廃止されている地名なんて…

でも、見つけたらうれしいよね!ってことで都内を東奔西走して集めました。

23区の住居表示実施状況(概略)

 2022年2月現在で、都心部では港区の麻布狸穴町、麻布永坂町で、新宿区は区内約24%の面積で未実施な他、23区の外縁にあたる練馬区西大泉町や江戸川区江戸川などにも未実施地区がみられる。しかし、大半の区では住居表示実施率100%かそれに近い数値である。


多摩地区の住居表示実施状況(概略)

 2022年2月現在、日野市や調布市、府中市、青梅市などでは実施率0%(全地区地番表記)のほか、八王子や立川でも中心市街のみの実施のため、低い実施率となっている。対して、都心に近い西東京市や武蔵野市、三鷹市、狛江市、東久留米市などでは100%となっている。一概に多摩地区の実施状況を語ることは出来ないが、都心に近い多摩地区東部は高い住居表示実施率であるもの、西に進むにつれ、いまだ未実施の地区が目立つといった感じであろうか。


足立区伊興町前沼

 現在の伊興本町、西竹の塚の各一部です。伊興町は23区で戦後、そして平成まで唯一残っていた「大字・小字」を用いた住所表記の地区として有名です。この地番表示板の場合、伊興町が大字で前沼が小字です。地方に行けば小字は沢山のこっているものの、この地番表示板のように大字小字をつなげて書く、いや、まず小字を書くという例は滅多にないとおもいます。小字を書かずに伊興町12345番地でも12345番地に郵便は届きます。このような事情で、細分化されて紛らわしい小字だけを廃止した都市は水戸市などが例にあります。

 この地番表示板は恐らく上部の空白に企業広告が書かれていたのでしょうが、どの会社かはわかりませんでした。

 伊興町について、軽くではありますが紹介します。先述の通り23区最後の大字・小字を残していた地域で、16の小字がありました。伊興町は1967年から住居表示実施をし、2001年には伊興町の名は消え、伊興、西伊興、東伊興、伊興本町、西竹の塚などに名前を変えました。ちなみに最後まで残った伊興町は「伊興町狭間」「伊興町白幡」の2つでした。

 参考までに、伊興町の小字を紹介すると、

・伊興町本町(伊興2,4,5)

伊興町前沼(伊興本町1,西竹の塚2など)

・伊興町大境(伊興本町1,伊興3)

・伊興町一丁目(西伊興1)

・伊興町聖堂(東伊興1)

・伊興町諏訪木(西新井3,4,西伊興1など)

・伊興町見通(西竹の塚1,伊興3)

・伊興町谷下(東伊興2)

・伊興町五庵(東伊興1)

・伊興町狭間(東伊興4)

・伊興町白幡(東伊興3)

・伊興町五反田(西伊興2,3)

・伊興町吉浜(西伊興4)

・伊興町番田(西伊興4)

・伊興町京伝(西伊興1など)

・伊興町槐戸(西伊興1など)

そして、各字の住居表示実施年(=廃止年)は

・1968年 聖堂、吉浜、五反田、一丁目、槐戸

・1970年 番田、京伝

・1987年 大境、諏訪木

・1997年 見通、五庵、本町

・1999年 前沼、谷下

・2001年 狭間、白幡

 

 伊興町の中でも前沼は比較的最近の廃止なので、表札にも名残が見られました。「伊興町前沼○○番地」「伊興町○○番地」「前沼○○番地」などなど。まさかの小字の前沼しか書いていないお宅があって驚きましたが、やはり小字という概念に親しんでいない23区民の混乱が伝わります。

(かつて住んでた場所を例に、大字だけの水戸市堀町○○番地や、大字小字を書いた水戸市堀町字新田○○番地では荷物は届きますが、小字だけの水戸市新田○○番地では荷物は届きません。なんなら堀町にある市民センターですら小字は把握してないとのことでした。)

足立区古千谷

 現在の古千谷本町にて撮影しました。読みにくいですが「古千谷四丁目5」とあります。1970年の古千谷町の地番整理(=同時に古千谷町を廃し、新町名の古千谷成立)のおかげで住居表示のような数字ですが、れっきとした地番です。足立区古千谷自体は現存する町名ですが、3丁目から5丁目は1995年古千谷本町1-5丁目となり、現在は古千谷1,2丁目のみが現存しています。古千谷の時代に住居表示実施しなかったのは、将来古千谷を消すことを想定していたのでしょう。

 右図(スマホ版は上図)は、現在の舎人公園内の町名を書いたものです。なんと、現存する部分の古千谷は、全域舎人公園の敷地になっているのです!公園なのでもちろん人口は0の地図を見なければ知り得ない幻の地名なのです。

 私は小学生のころから地図が好きで、舎人公園が異様に地名が分割されていることに興味を持っていましたが、なぜこうなっているのかを知ったのは高3の時でした。古千谷1,2、舎人町、入谷町、西伊興町は、公園造成以前の、まだ人がいた時代の地名だそうです。たしかに舎人、入谷、西伊興と「町」が外れた住居表示実施済地区が近辺にありますしね。しかし、昭和に決めた計画から80年近く経った舎人公園は、もうすぐ完成しそうです。完成した暁には、公園内の地名は舎人公園西北部のみ現在みられる「舎人公園」に統一するそうです。公園内に残る旧町名の亡霊はもうすぐ成仏しそうです。

杉並区上井草町

 上井草町は現在の上井草2,3丁目と井草5丁目の一部です。杉並区公式サイトによると、杉並区は昭和38年(1963年)から昭和44年(1969年)にかけて全域で住居表示実施をし、上井草町は昭和38年12月に実施したそうです。他の自治体よりも早い時期に住居表示実施をした事がうかがえます(大体は70年代だと私は感じています)。まさか公式サイトから新旧番地対照表が公開されてるとは思わず、Twitterで見たこの琺瑯の地番表示板を古い地図やら文献やらを使って必死に探しました。茨城県内の大学図書館に古い23区の地図があり、それで何とかこの看板を見つけることが出来ました。何度か通ったことがある道でしたが、生垣に隠れていて気づきませんでした。にしても1963年以前のものを令和になった今も見れるなんて凄いですよね。しかも風化はそこまで無いなんて。これが琺瑯のチカラです。そして家主さんのチカラでもあります。「ヱスビーカレー」は、「S&B」のロゴでカレーや香辛料を販売する「ヱスビー食品株式会社」の広告とおもわれます。

新宿区坂町

 現在の新宿区四谷坂町です。新宿区は23区の中で驚くほど地番が多く残る区です。その中の一つだった坂町は平成27年(2015年)7月に住居表示実施をし、町名も明治44年以前の地名である四谷坂町に戻りました。町内には表札はまだ坂町のままのものが多かったのと、広告付き地番表示板に限り残されたままとなっていました。丸められてる方の広告は分かりませんでしたが、おそらくどちらも東急リバブルのものと思われます。

中央區銀座東

 1951年から69年まで存在した「銀座東」は、今なお銀座東二丁目などの交差点名称に残っています。右書きなので戦前の期待もあったのですが違いました。現在の銀座です。銀座という一等地で建物の建て替えも多い都心部で、このように旧町名が残っているとうれしいですね。

練馬区下石神井

 下石神井という地名は今も現存していますが、範囲は大きく異なります。今の下石神井1~6丁目は住居表示実施以前の下石神井1丁目、そして、今の石神井町1丁目~8丁目は下石神井2丁目でした。地元の方ならわかると思いますが、相当な面積を占めていました。住居表示実施年は1970年です。高校の通学路にこの地番表示板があり、なんで下石神井のが石神井町にあるのだろうかと疑問に思ったのが琺瑯看板と旧町名に興味を持ったきっかけです。レトロな駅舎と跨線橋のあった石神井公園駅も建て替えられ、新道も整備されて変わりゆく石神井の町をこれからも見守ってほしいですね。